『かえるのこえが聞こえてくるよ』

水彩絵の具の空。

あたしを覆うは、水っぽい青色。どこまでも途切れない絵の具を与えられたようにのびやかに。

地平線の先には、まもなくやってくる白い世界と暖かい色の太陽。

地上にはどこまでも連なるネギ畑の列。と、よくわからないハスの葉っぱのような、どわっとした草の列。

規則正しく、礼儀正しく、一列に。

 

景色に全身を包まれて、路上の砂利をはじきながら歩く帰り道。

はじく力は脚でなく、摩訶不思議な超能力。
そんなささやかな違いなんてこんな景色の前ではなんの意味だってなく、茂みの淵から目の前にボトンと飛び出したでっぷりぶりぶりの茶色いカエルだってこの超能力とはなんの関係もなくやって来るのだ。

 

「でか。」

それにしても、大きなカエルがやってきたものだね。思わず屈みこんで、手をかざして持ち上げる。

「こんにちは、カエルさん。あたし、今日お仕事で特上のミスをしっちゃったよ。それでね、上司に怒られちゃったのだよ。とっても。」

不思議な力であたしの目の高さでぷかぷかと浮かぶカエルは、ジタバタするでもなくぎょろぎょろとした目であたしを見つめる。グエログエロ。

「そうなのさ、あたしはとっても傷付いてるってわけなんだ。おぅい、聞いてるのか?ゲロゲロ鳴いてないで、なんかいったらどうよ。」

 

ちりんちりんと後ろから音がして、おわっと、あたしの集中力は拡散、思わずカエルをぼとりと落とす。自転車はあたしの脇を通り抜け、謝りも振り返りもせず前方に消えていった。カエルはカエルで、つぶらな瞳は怒るでもなく何事もなかったかのようにあたしに一瞥して、ボヨンと茂みに帰っていった。

「ゴメンよ、カエルさん。て、うわ、もしかして今のあたしってかなり恥ずかしいかも。」

いま自転車で通り過ぎた人にとって、あたしはカエルと喋る女だ。ただの危ない子ちゃんじゃんか。
うわわ、どうしよと思いながら、カエルがいなくなって手持ち無沙汰なあたしは地面の石ころを目で弾く。最近、ついつい超能力をつかってしまう。子供の頃のペン回しみたいな感覚で、意味もなく理由もなく。

だけどそのおかげで、少しずつこの不可思議な力のこともわかってきた。さっきカエルを持ち上げたみたいな技術は意外と高度に力を使うとか、今みたいにただ弾くとか押すとか、ひとつの方向性に力を使うことの方が楽に出来るとか、パンよりごはんを食べたときのほうがなんか力でるなぁとか。

この力がどういう原理なのかがわからない以上、何故かなんてことはわかるはずもないのだけれど、日常的に使うにつれて感覚的になんとなくわかることが増えてきたのだ。「たぶん、イメージのしやすさが問題なのだとは思うんだよねー、やっぱ引っ張るよりは押す方が楽だし・・・、あ。」
ふと浮かぶ、思いつき。思いつきって、ほとんどがロクな事じゃないけど、ロクな事もあるから馬鹿にもできない。
とりあえずやってみようか、あたし。

「上野マリ、実験イチ、はじめます。」
手を挙げ宣誓。そっと目を閉じる。

 

 

目を閉じ、集中する。
最初、そこにあるのはただの暗闇だった。
少しずつ、目を閉じた後に見える世界を受け容れてゆく。

 
風の匂い。
植物の香り。

鳥の羽音。
カエルの鳴き声。
空がある音。

そして、静かに聞こえてくる夜の始まる音。

両の目で見ていた180度の世界は、いま360度に。
まぶたの裏に広がる世界だってあるのだ。

感じる、あたしの体に流れる血。

血液に運ばれ、全身を廻る力。

思い浮かべるは、何かではなく大地全体を押すイメージ。
そっと、そっと力を込めると、足元の砂利が土の中に沈んでいく音が、それはあるかないかの小さな音だけど、わずかながら聞こえてくる。

さらに力を込める。ぞわぞわとした全身の産毛の感覚に代わり、足の裏に押し付けられた地面の感覚は薄れていく。

やがて・・・。

 

「あ、浮かんだ。浮かんでる、る、お、おわわわ。」

 

初めての感覚で湧き出てきたのは喜びとか楽しさなんかじゃなくて、不安と怖さだった。

なんで。

 

だって。

 

そうだ。

 

あたしはいまはじめて独りになったのだ。

 

人は産まれてから死ぬまで常になにかと繋がっていたんだ。

地面に立って、座って、寝っころがって、なにかにぶら下がって、常に確実にそこにあるものと繋がっていたから、自分の存在に疑問を持たずに済んでいた。その鎖が、いま解き放たれたんだ。

なにものにも繋がれてない不安と孤独。圧倒的な自由。360度の世界が閉じてゆく。感触も音も匂いもすべてが無になる。

「わ。」

無に耐え切れず、目を開ける。
体はどっさと地面に投げつけられる。
180度ないつもの世界。

音が、においが、視界が、帰ってきた五感の地球。

「・・・・・・。」

ドキドキがやまない。手を見つめながら、震えた言葉がこぼれる。

「飛んだんだよね。」

「飛んだんだよ。」

 

飛んだといってもたぶん5cmやそこら。

それって、ジャンプするよりずっとわずかに浮かんだだけで、だからどうしたのっていう領域だ。そんな少し浮かべることなんか、とくに何の意味もないでしょ。これからの生活になんかの役に立つかなって考えても、・・・何の役にも立たないね。うん。転職の際に有利になったり、新しい彼氏が見つかったりするわけでもないでしょ。因数分解が出来るからなんだっていうんだみたいなね。

 
全然、意味なんてない。

だけど意味なんていらない。

ただ、空を飛べる。
その事実だけでいいじゃん。 

 

うーん、そんなこと考えながらも気が付いてはいたのだけれど、視界に入るのは大地を掴む両手です。
「今のあたし、カエルみたいな恰好してるよね。」

《おわり》

Keroo

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